『君が死んじゃったら、きっと僕の心には雨が降り続けるよ。雨はゆっくりと溜まっていって冷えて凍えていく。全てが凍り砕け散ったのならきっと、"僕"は死んでしまうのさ。――ねぇ、君は僕に笑っていてほしいと言う?』

 なにも映し出さない暗闇に、ほのかな一つの光が灯っている。
 それはベッドの中で彼の体温を感じながら、そんな寒々しい未来を語った僕を彼の潰れた眼に映し出していた。
 彼は開くことのない瞳で僕を見た。

『いいえ』

 それは否定の言葉だった。
 彼は酷く穏やかに口元を緩め、暖かくなるような笑みを僕に向けた。

『むしろ、死んだ後ですら貴方を私が縛っておけるのなら、願ってもないことですよ』

『君は欲張りだね』

 僕はくすくすと鈴を転がすように笑った。
 だって、ベッドの中で僕の身体を両手で包み込み温めようとする彼の姿はとても穏やかで自愛に満ちていて――そんな独りよがりな台詞を吐くとは思わせなかったから。
 けれど、彼の本質が自愛のみでないことを知っている僕は、彼らしいと思わず笑ってしまうのだ。

『でも、そう言ってくれて良かった。例え君が笑っていて欲しいと望んでも、君が居なくなった後に僕は笑える自信なんてこれっぽっちもなかったからね』

 言った後に再度くすくすと笑った僕を、彼はぎゅうっと抱きしめた。
 素肌が触れ合う熱を帯びた感触は、彼が生きていることを証明していて酷く安心した。
 彼は酷く真剣な表情で開かぬ瞼から真っ直ぐ僕を見つめた。

『時人。貴方は貴方が感じるままに生きればいいのです。例え、悲しみの海に溺れようとも貴方が貴方のままであれば、私はそれでいいのですから――』

 それはあまりにも残酷であまりにも慈悲に満ちていて、僕は深くにもぽろりと涙を一粒流してしまっていた。
 彼はそんな僕をくすりと笑うと流れ落ちた涙を唇で掬い、思わず瞼を閉じた僕のそこに唇を落とした。
 そんなささやかな夜。




      悲しみの海




 しとしとと雨が降る。
 雨音を聞きながら、僕はただ窓の外の雨を眺めていた。
 あの人が死んで何年になるだろうか。
 サムライという至上の道を歩み続けたあの人は、しかしその道の困難さゆえに命を縮めていって。
 僕とあの人が共に居られた歳月はとてもとても短かった。壬生一族として生まれ、永遠に近い命を約束されていた僕にとっては瞬きするほどの間しかなかった。
 けれど、その瞬きするほどしかなかった間は僕の心に安寧を呼び、そして安寧を呼んだあの人が父様や母様と同じ場所へと旅立ってしまってからはまるで時が凍り付いてしまったかのように、変わらぬ日々だけが続き――。

 がらりと戸が開く音がした。

「母様、ただいま。……って、また風邪を引くような格好をなさって! なにか上に羽織ってくださいっ」

 明るくただいまと述べた、十八〜九歳程度の外見をした彼は心配そうに僕を見た。
 明るい栗色の髪、女性的とも言える整った顔立ちに真っ直ぐ見つめるのは青緑エメラルド・グリーンの瞳。
 母様と述べた彼は、酷く僕の心に安寧を呼んだあの人に似ていた。
 無論、あの人との息子である彼があの人に似ているのは道理に適っているのだが。しかし、あの人が生きているころは瓜二つすぎて少しおかしかったっけ。

「大丈夫だよ、時雨シグレ

 ――僕はそのまま死んでも構わないのだから。
 続けられたはずの言葉はしかし、さすがに息子の前で言える内容ではなくそのまま静かに言葉を殺した。
 心配するような言葉が潰えても、彼はあの人が僕に一度しか見せた事のなかった青緑の瞳を心配そうに向けている。ああ、あの人と僕の子にしちゃあとてもいい子だ。
 しかし、息子――時雨は僕を説得するのを諦めたのか深くため息をつくと、僕が見ていた窓に視線をやった。

「雨、ですね。母様」

「うん。雨だね」

 しとしとと雨は音を柔らかく立てながら降り続ける。

「ねぇ、母様」

「なにさ」

「どうして母様は若い姿のままで居るのです? 父様が健在だった頃は美しく熟した姿ではなかったですか」

 ああ、と僕は納得したように声を出した。
 あの人が居たころ。僕はあの人への恋心を認め結婚する頃に年齢に沿う本来の姿に戻った。僕が十四の姿で居たのは僕自身に一種呪いのようなものをかけていた所為で、彼の隣で"女"として生きるのだと決めたときにその呪いは解けたのだから。
 けれど、あの人が僕の下を去ってから僕はまた十四の姿で居るようになった。
 元の姿であることに慣れた身体は最初力を制限することに息苦しさを感じたものだけれども、今では止めてしまった心同様姿もそのまま止まってしまっている。

「僕はね、時雨。あの人の前でだけ女だったんだよ。あの人の前では僕は僕のままで居られたし、僕は女で居られた。けれど、あの人は居なくなった。だから、僕は女である必要がなくなったんだ。――ただ、それだけだよ」

「母様、それは――あまりにも悲しすぎます」

 時雨は僕の悲しみを受け取ったようにその表情を悲しみに彩らせた。
 けれどね、時雨。君じゃあ駄目なんだ。
 僕の心を動かせたのは後にも先にも――あの人しか居なかったのだから。

「父様はそれでよいと?」

「うん。生前に了承は得たよ。あの人はとても――優しい人だったからね。僕に無理をしなくてもよいといってくれた。悲しみに身を沈めたいのならばそのままでいいのだと。僕の生きたい通りに生きればいいのだと――そう言ってくれたよ」

「私から見れば、父様の我が儘にしか聞こえませんけれどね」

 呆れたように呟く時雨に僕はくすりと笑った。
 確かにあの人は決して優しいだけの人じゃなかった。傲慢で我を通す人だった。――けれど、僕には酷く優しい人に思えたのだ。
 最後の最後まで。

「私はまだ母様のような恋をしておりませんから、心情は察しかねますが――。きっと母様はそのまま溺れてしまうのでしょうね」

「そうだろうね」

 そうなんだろう。
 あの人が僕の前から消えてしまったあの日から振り続けている雨は、僕の心の中に溜まっていって。
 溺れてしまったままゆっくりとゆっくりと冷えて固まって――粉々に砕けてしまうのだろう。
 いつの日だったか、あの人と共にした褥で呟いた言葉の通り。
 しとしとと雨が降る。
 降り続けてついぞ止まぬ雨が、しとしとと。
 ああ、僕はいつになったのなら本当に時を止めてしまえるのだろうか。永久に近いこの時を。

「ねぇ、時雨」

 僕は息子に呼びかける。
 瑞々しく育ち続ける息子は、僕の目に映る唯一の時が進むもの。凍えてしまえと襦袢だけを着ている僕に冷えますよ、と優しく上着を被せてくれる優しい優しい息子。

「僕はいつになったらアキラに会えるんだろうね?」

 彼に答える術がないことなど知っていた。



      >>20060929 母のほうが長生きという設定に思い出したのがTOFのチェスアーだったのです。



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