時折、思い出す音がある。
 それは脳髄に焼き付けられた音だった。




      耳を塞いでも消えない音




 耳の奥から静かに響き渡るその音に怯えて目を覚ますと、そこは夜の帳が降りているホテルの一室だった。
 さらさらと滑るシーツは幼い頃に守られて眠ったときのような穏やかな感触を持っていた。
 あの頃に戻りたいと思ったことなど一度も無かったけれど、それでも懐かしく思うのは幼い頃に刷り込まれた記憶の一端であろう。
 べたべたと纏わりつく汗にふうとため息をついてシャワーを軽く浴びると、ボクは衣服を身に纏い部屋を後にした。
 ホテルの庭はまるで森の中のように静かに佇んでいた。
 風がぶわっと舞い、さらさらと木々が音を立てる。

「キノさん」

 声をかけられて、ボクは反射的にホルダーから取り出したパースエイダーをその人に向けていた。
 しかし、その人は緑色のセーターを身に纏い腰に刀を下げた、ボクと一緒に旅をしている人だった。
 ボクはとりあえず大丈夫だろうとパースエイダーを下ろすと、その人――シズさんは柔らかく微笑んだ。

「今晩和。どうしたんですか、こんな真夜中に?」

「……目が覚めたので、気晴らしみたいなものです。シズさんは?」

 答えて、逆に問い掛けるとシズさんはボクの近くまで歩み寄って、微笑むを絶やすことなく答えた。

「似たようなものです。――それにしてもここはまるで森のようですね」

「ええ。そうですね」

 ボクは木々を静かに眺めた。
 さらさらと音を奏でる森は真っ黒な闇の中、どこか不気味な雰囲気を醸し出していた。
 夢を見た所為だろうか。
 ずぐり、と鈍い音が脳髄の奥で燻ったまま消えない。
 きっと、瞳を閉じてしまえばその風景がまるで現実のように浮かんでくるはずだろう。――"私"が父と呼んだ男の、人を殺している姿が。

「キノさん?」

 声にはっと現実に戻され呼ばれたままにシズさんを見ると、彼はどこか心配そうにボクを見ていた。
 ああ、ボクは変な顔でもしていたのだろうか。シズさんに感付かれてしまうほどに変な顔を。

「――シズさん、シズさんは消えない音というものはありますか?」

「消えない、音?」

「ええ。消えない音です」

 例えばパースエイダーで人を打ちぬく音だとか、もしくは刀で人を斬る音だとか。
 それを承知で旅人をしているのだし、人殺しを躊躇した時点で殺されてしまう事など目に見えるのだけれど、それでも人を殺してはいけないと遠い昔に教えられたボクなどは初めて人を殺したとき恐ろしかった。
 同じ目に会うのではないかと。
 自分もまた、人に殺されるのではないだろうかと。
 そんな、人だからこそ思う自己中心的なしかし当たり前である死の恐怖は確かにボクを襲った。
 消えない音というものは例えば自分の生命の恐怖だったり罪悪感だったりに付随するものだと思うのだ。だったら、シズさんもなんらかの消えない音を脳髄の奥底に持っていてもおかしくないであろう。

「そうだね、……ああ、あるよ」

「そうですか」

「うん。もっとも旅をする前の話だけれどね。――やっぱり、怒りや絶望なんかを覚えるとその時に鳴り響いていたりその原因になった音なんていうのは良く覚えているものだね」

 シズさんは真っ黒な空を静かに眺めた。
 空を眺めている瞳はどこか悲しげだった。
 彼もまた波乱万丈な人生を送り続けている人だから、やっぱり強烈に焼き付かれた音は存在するのだろう。望む望まないに関わらず。
 それはとても悲しいことだと思った。

「キノさんもあるのだろうね。……もし俺達が生まれた国で生活を何も疑わずに、それが普通だと思いながら静かに暮らせたのなら、――消えない音なんてものはなかったのだろうか」

 そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
 でも、それが既に無駄である事だけは分かる。

「もしもだなんて、仮定の話をするだけ無駄ですよ。既にボク達はその仮定を通り越してしまったのですから」

「そうだね」

 シズさんはくすくすと苦笑すると、ボクのほうを向いて一瞬のうちに頬にキスを落とした。

「それだけ在ってしまったトラウマは消えないのだろうね」



      >>20061028 道徳観念というのは酷く自己中心的なものから出来ていると思う。



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