運動神経はそれほど悪くないし(サムライの血もなく運動神経すら悪かったら最悪である)、足の速さに関しては気にしたことなど一度もなかったのに、胸の中で荒い息を吐き吐いた後に凝固を始めた血が彼女の口元で固まっていくたびにどうしてオレの足はこんなにも遅いのだと恨めしく思う。
 それでも、走るしかなかった。
 息苦しそうに彼女がひゅうひゅうと息を吐いているうちに。

 樹海の奥にあるのはかつて栄華を極め、欲しいままにこの国を蹂躙し続けた一族の都だった。
 かつて、狂という最強の漢に集いし者達が一族――壬生の全てを暴き立て、先代"紅の王"の絶望を打ち砕いた舞台となった場所だ。オレ自身もその戦いに参加し、そしてその後死合うことすらも出来なくなった体を一年ほど治癒し続けた場所でもあった。
 鍛錬の旅に出たときにはもうこの地に戻ることはないだろうと思っていたのだが、その予想は見事に外れた。――最悪の形で。
 息苦しくて何度も足を止めようと思ったが、気合と胸に寄りかかる重みで気を取り直しながら、ようやく目的地が見えた。
 以前紅の塔にあった、少し物が乱雑していて人の気配で溢れかえっていてそれでいて暖かかったあの空間を所有する、少し大きめの平屋が。
 両手で胸の中にいる彼女を支えているため、そろそろと横開きの戸を開けるなどという面倒な真似をする器用さも時間もなかったので、足で蹴破った。
 荒い息のまま真っ直ぐ目に入ったのは、以前オレも腕の中の人も随分世話になった妙に面倒見の良い庵家の長女だった。
 庵家の長女・庵奈は驚いたように目を見開いて、オレとオレの胸の中にいる彼女を凝視していた。もしかしたら、庵奈には彼女が誰なのか分からないのかもしれない。なぜならば、彼女の姿は以前自分たちに見せていた幼く未成熟な姿ではなく――美しく育ちきった花のような姿だったので。
 しかし、その刹那すらも惜しいオレは、荒い息のまま酷く情けない声で言った。

「時人を――診てください」

 すると、庵菜は我に返ったようにはっと目の焦点を合わせると慌てて立ち上がり、部屋の奥へと案内した。




      強き華




 こびりついた血を綺麗にふき取った時人の表情はしかし、青い顔をして荒い息を吐いていた。
 それでも、壬生の入り口に差し掛かったときのような切羽詰った状況ではないようで、ひとまずほぅっと息を吐く。
 冷たく絞ったタオルを額の上に載せた庵菜は彼女を挟んでオレと向かい合わせになるような位置で座った。
 ずっと時人を見ていた俺は、しかし庵奈の仮の検診結果を聞かぬわけにはいかず機能を失った二つの目を彼女に向けた。それでも心の眼は役立たずにしてしまった本当の目とは違いきちんと機能を示した。
 気配や風邪の流れで庵奈の輪郭や顔の形、些細な表情の変化や来ている服の皺がよれるところまで"見る"ことができる。
 そうして"見た"庵奈の表情は酷く悲しげでそれでいて今から発すること自体が苦痛であるかのように顔を歪めていた。

「これは――死の病だよ」

 予想していた言葉だった。
 長寿の民である壬生一族は人間のあらゆる病を弾き飛ばし、それにかかることはない。戦闘人形として作られた経緯からそういう風に"作られた"のかもしれないが、戦いが強いという以外にもそれがあったからこそ壬生の一族は長寿であった。
 しかし、時人の母・姫時が初めてかかり、そして死ぬ原因にもなった病――それが死の病だった。
 その病だけが壬生一族を死に至らしめることが出来るものであった。近年、前世代が苦労を積み重ね残したものが実りその解決口を見つけたのだが――。

「しかし、なんでだい? ここ近年、ワクチン接種者で死の病が発病したものなど居ないはずなのに――」

 そう、一般的に言うところの抗体を作るためのワクチン。かかる前に予防する。それが、ようやく見つけた唯一の解決口だった。
 ちなみに補足しておくと、死の病というのは遺伝的な要素と感染が相まって発症するものだと分かってきた。もともと作られた民族である壬生一族は人間にはない遺伝子を所有している。人間ならば発症しないような非常に弱いあるウィルスを体内に入れてしまうと、その遺伝子が炎症を起こしてしまうのだ。
 ウィルスに反応し炎症を起こし続け、体内をぼろぼろにしていく。そして、それはまるで花粉症のようにウィルスが体内にあるだけで発生し続ける――死ぬまで。
 しかし、それは先代"紅の王"が寵愛していたるるという人物から抗体が出てきたからこそ推測できた事態で、その発症の引き金となるウィルスが何かはまったく分かっていない。
 それに、ワクチンといっても抗体をただ身体の中に入れるだけなのだ。本来のワクチンは病原菌を体内に少し入れることで自発的に抗体ができるのを促すが、病原菌を入れても壬生一族の身体の中に抗体が出来ることはないだろう。もっとも後半部分の説明に関しては病原菌が何かも分かっていないのだから予測の域を超えないのだが。
 ともかくそういった観点から、ワクチン接種による発病者は減っているものの、治療に関してはまったく進んでいないのが現状であった――時人が予防接種を受けた時点では。

「……」

 オレには庵奈に答える言葉はなかった。
 ただひたすら、サムライという道を走り続けていたオレには人体の仕組みや運動法則などの必要な情報はあったものの、治癒に関する情報も技術ももっていない。しかも壬生一族というオレ達とは異なる作りをした一族の人体などこれっぽっちもわからないのだから。
 そんな自分があまりにも不甲斐なくて、オレはぐっと歯を噛み締めた。
 その時、がらっと戸が開く音が耳に入り庵奈がはっと顔を上げると、声が聞こえた。

「時人が予防接種時、身体を十四歳程度に歪めていた所為さ」

 その声の人物はオレがよく知る人だった。
 以前四天聖として行動を共にし、最低最悪な性格の持ち主なのだが唯一の癒し手で今は壬生内で死の病の研究をしている彼にして彼女の――灯。
 ピンク色の髪を揺らし白衣を身に纏わせた姿は、以前会ったときよりも穏やかでまるで人を落ち着かせるような雰囲気を持っていた。もっとも、実質のところはそれほど変わっていないのだろうが。
 灯はオレの隣に座り、辛そうに荒く息を吐く時人の胸元デコルテに手を置くと、ふっと目を閉じた。
 ふわんと灯の手からほのかに光が漏れ、荒く息を吐いていた時人の呼吸が通常のペースに戻っていく。そして苦しげに歪んでいた顔も青白いものの穏やかなものになった。
 その目に見える変化にオレはほうっとようやく安堵の息を吐くことが出来た。
 それが、一時のものでしかないことを知りながらも。
 時人から手を離した灯は何かを確認するかのようにオレを見た。
 オレの表情に何が映し出されていたのか灯は酷く心配そうな顔をしたものの、直ぐに医者としての使命を果たすためだろう、酷く真剣な表情でオレに言った。

「元の身体に戻ったとき、細胞の変化とともに抗体も変化してしまったんだろうね。死の病に対して発生するはずの抗体はなくなってしまっているよ。そんな無防備な状態で時人は妊娠してしまった――」

 驚いたようにオレの顔を見たのは庵奈だった。そうしながら、庵菜は穏やかに眠っている時人の顔も確認するように見ていた。
 しかし、オレはその言葉になんら喜びを覚えることが出来ない。
 無論、初めて彼女の体内にオレとの子がいると知ったときにはそれ相応に喜んだものだが、今となっては。
 灯はそんなオレ達の反応を見ていたのか、留めていた言葉を続けた。

「妊娠したことにより体力は急激に消耗され、病気が発生しやすい状況になる。尚且つ、身体を歪めていた反動で急激に死の病が進行したようだね」

 精密検査をしてみないことには確かなことは言えないけれど――。と灯は酷く険しい顔で穏やかな表情で眠っている時人をちらりと見ると、真剣な表情をしオレのほうを向いた。

「元々、時人は死の病を最初に発病した姫時の娘――それだけ、死の病を発病させやすい状況下にあったんだ。これは予期される事態だったんだよ、アキラ。そんなことにも気がつかなかったのかい?」

 その言葉に含まれていたものは、優しさではなく不甲斐ないオレに対しての憤りだった。
 そして、それはオレも自身に対して思っていたことだった。
 何故オレは事態を予測できなかった?
 何故オレはいち早く時人の容態に気付いてやれなかった?
 何故オレは彼女の状況を改善する方法を有していない?
 灯の声音に含まれていたそれに抑えていたそれらの憤りが飛び出してきそうになり、思わず拳を作り爪で掌をえぐることによって押さえつける。

「ええ。ふがいないですよ、一人の女も守れないで何がサムライですか――」

 それでも言葉の端に漏れる自身への深い憤りは隠しきれず、冷静になりきれていない自分を押さえつけるようにぐっと歯を噛んだ。
 そんなオレを見て灯は真剣な表情に悲しみを彩らせていたような顔を、ふっと柔らかくした。

「治療法はあるんだよ」

「本当ですか!?」

 思わずがっと灯の肩を掴んでいた。
 なぜならば、それはオレが今一番聞きたかった言葉だったから。
 癒しに関してはまったく専門外であるオレは灯の言葉に頼るしかないのだから。――もっとも、なかったらなかったで地の果てでも治癒法を探そうと思っていたのだけれど。
 それでも、吐血してしまっている時人に残された時間はあまり長くないはずだ。そう考えれば、灯の言葉は本当に嬉しく感じた。

「予防接種よりは不確実だけどね。――けれど、死者数は発病者数に対して十五%と確実に減っているし、完治している人も居る。やらないよりかはやるほうが遥かにいいだろうね」

 けれどね――、と接続語を述べた灯はどこか影を含ませ言いよどんでいた。その様子は、明らかに悪い方向の言葉を述べようとしていると分かる。
 オレは灯の肩から手を退くと、真正面から灯を見た。
 その態度で、どんなことでも受け止めると言うために。――オレは、時人が生きてさえいればその他の犠牲を払うことなど容易いのだから。
 それが分かったのか、灯は真っ直ぐにオレを見て言葉を続けた。

「治療による投薬生活で胎児に与える影響も、胎児が居る女性に起こる影響もまったく分からないんだよ。――下手に作用すれば奇形児になったり、最悪母子共に死ぬということもあるかもしれない」

 その言葉に、思わず時人を見た。
 穏やかに眠る時人のお腹の中には健やかに成長し続ける子供がいるのだ。――オレと彼女の。

「そんな予測もつかない治癒なんて認めるわけにはいかない。――つまり、妊娠中は治療を施すことがまったく出来ないんだよ、アキラ。それこそ出産するまで死の病の進行が緩やかであることを祈るか、堕胎するしか選択肢がないんだ」

「そんなの決まっています」

 灯の言葉に一瞬の遅れも見せず、オレは言い切った。
 そう決まっているのだ。
 選択を迫られた時点で優先すべきものは、オレの中で。

「私が選ぶべきものは、唯一つなのですから」

 言い切ったオレを、灯は悲しげな目で見ていた。



      >>20061007 苗字が庵じゃないんだから庵家表記っておかしいよね(爆)。



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