――ええっ? 初恋の話ですか……?
 貴方は本当に人の嫌がるようなことが好きですね。――褒めていませんからっ!
 それに、昼休みも後二十分程度しか残っていないではないですか。話している合間に先生が来てしまいますよ。
 ――逃げようだなんてしていません! 約束は約束。罰ゲームは罰ゲームとして受けますよ。ほんっと灯、貴方は人が悪いですね。
 ええ、さっさと話しますよ。
 ただなにぶん幼い頃の記憶ですので、少しばかり正確ではないかもしれません。今考えてみれば、起こりえないようなことがあったのですから。ですから、話し終わるまでは口を出さないで下さいね。
 はぁ……、とにかく始めますよ。




      初恋




 あれは私が五歳の頃でした。
 貴方がたもご存知の通り、私は孤児院に居ました。
 孤児院という環境がそうさせるのかそれとも両親に捨てられた所為なのか、その頃私はまったく孤児院に馴染めず、よく脱走を繰り返して夕暮れに連れ戻されては職員に怒られるということを繰り返していました。
 そして、その日も変わらず職員の目を盗んで脱走を図り、見事成功し近所を歩いていました。
 といっても所詮五歳児、所持金も持っていなければ小さな足だけで遠くに行けるわけもなく。
 あの頃は自分が周りの子供とは違い大きな冒険を繰り返していたように思えたものですが、実のところは近所をぐるぐる歩いていただけでした。
 ともかく私は壁を越えぼうぼうに生えた草木を分け、逃げようと突き進んでいました。
 その時、見慣れぬ家を見つけたのです。
 こじんまりとした、それでいて趣のある日本家屋。とても長い年月そこに立っていたのか、土壁に藁葺き屋根などという古き日本を思い出させるようなそれは、いつも孤児院を抜け出して歩き回っていたはずでしたのに一度も見かけたことがありませんでしたから、酷く珍しいものを見つけたような気がしました。
 子供というものは恐れを知らぬものですね。
 なんとなく幽霊屋敷を見ているような気分になり、私は冒険心からその家に入ってみようと思ったのです。
 がらがらと引き戸を開けると、人の気配はなくしぃんと静まり返っておりました。けれど手入れされているのか、綺麗に片付いた土間は土の匂いを感じ珍しく思えました。
 静まり返った土間の左と正面に扉がありまして、私は綺麗に整えられた土を踏み汚し段差のあるつるりとした木の上へ足を乗せますと、左の扉を開けました。
 八畳ぐらいでしょうか、畳が敷き詰められた部屋には中心に机が置いてありまして、机の手前で待ち構えていたかのように着物を適度に崩して着ていた一人の端麗な女性が、真っ直ぐ私を見つめていました。
 女性といっても孤児院の職員ほどの年齢には思えませんでした。それは関わりあう機会などまったくありませんでしたが、孤児院を出なくてはいけない様な年の頃のように見えました。
 肩にかかる程度の萌黄色をした髪は、芽が出始めたどこか涼やかでしかし健やかに伸びていきそうな無限の可能性を感じさせるものでした。彼女の見た目を考えますと、それはまさに正しかったのでしょう。蕾をつける頃の花の芽。――そう、彼女はそんな外見をしておりました。
 しかし、同じ色をしているはずの目は永久凍土の中で生きている草木のような寒々とした不変を思い起こさせ、彼女自身の雰囲気もまたそれに付随しており、その相反するものが同時に存在する奇妙さはまるで彼女がこの世のものでない、触れてはいけない美しいもののように思えました。
 ――そう、私は一目で彼女に魅入ってしまっていたのです。
 その人は見つめたまま動かない私を不審に思ったのでしょう、にこりと笑い言葉を発しました。

「人がいないとでも思ったのかい、小さな侵入者君?」

 文脈はどこか人を小ばかにしたような印象を受けるものでしたが、しかし発した声音はまるで子供を持った母のように穏やかで慈悲に溢れたものでした。――彼女自身が母親であったかのような。
 私はその言葉にはっと我を取り戻すと、警戒するように彼女を睨みつけました。
 その頃、どうにも全ての大人を信用しきれていなかったのです。――いえ、自分以外の他人をと述べたほうが正しいでしょうね。
 ともかく、その思考により魅入ってしまった筈のその人に対して、感情そのままを外へ発露できなかったのです。

「さっさと出て行くから安心しろよ」

 小生意気なガキのような台詞を発した私は――いや、その頃は正に小生意気なガキそのものでしたが――ふんと彼女に悪態をついて開けたままだった扉から外へ出ようとしました。
 しかし、彼女はくすりと笑うと、

「君はそんな簡単に出て行ってしまうほどに弱虫なのかい? 侵入者ならば親玉である僕を倒さなくては目的を達成しないだろ?」

 見事、私を挑発できるような言葉を述べました。
 無論その言葉に――いいえ、全てに於いて抗う力など持っていなかったのに、プライドが高かった私は見事その挑発に乗ってしまったのです。――今考えれば、彼女は一目見たときから私の性格を見抜いて、あえて留めるためにそんな言い回しをしたのかもしれません。

「オレは弱虫なんかじゃない! お前なんてぎったんぎったんに倒せるからな!」

「そう、なら倒してみるがいいよ。――その前にお茶を出すから大人しくしているんだよ、小さな侵入者君?」

 彼女は熱り立つ私の頭をくしゃりと優しく撫で、そこに居るよう指を差すと奥に行きました。彼女の姿が見えなくなると、私は酷く居心地の悪い気分になりまして、そわそわと視線をさ迷わせました。
 木で出来た飾り棚や丸い窓、細かい装飾品は外観と違わず古き昔にあるような純日本風であり、孤児院の生活臭に溢れた汚れた部屋や無造作に放置してある風景をうるさくさせる玩具などとはまるで違い、異世界に来たような気分になってしまいました。
 そう、例えば江戸時代にでもタイムスリップしたような――。
 そんなことを子供ながらに感じきょろきょろと周りを見ていた私に、彼女は穏やかな表情で手にお盆を持ってこちらに来ると、テーブルに二人分の熱いお茶と和菓子を乗せ向かい合わせになるよう座りました。

「そういえば、君の名前を聞いていなかったね。なんて言うんだい?」

 私は特に何も考えずに名前を述べますと、彼女は驚いたように瞳孔を開かせ永久凍土の中にいるような萌黄色の目に初めて変化を見せましたが、しかし直ぐになんてことのないような酷く凍えた目に戻りました。
 ――ええ、それが妙に印象的だったのです。
 その後彼女の名前も聞いたのですが、いかんせん幼いときのことでその人の名前は今では思い出せないのです。彼女の細い指や憂うような表情は印象深く残っていますのに。でもまぁ、記憶というものはそんなものなのでしょうね。



      >>20061105 この設定を一発で理解できた人はすごいですよ、ほんと。



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