the Beautiful World
一台のモトラド(注・二輪車。空を飛ばないものを指す)が走っていた。
だがしかし、モトラドは一人で走れるものではない。操縦するために一人の少年が其処に乗っていた。耳あてのついた飛行帽の様な前に鍔の付いた帽子を被り、風や砂埃から目を守るためであろうゴーグルを装着したその顔はまだ成熟したそれではなく、子供から大人への変化が見られる微妙な年頃であることを示している。茶色のコートを羽織り、その中にはライダージャケットとズボンをはいている。腰元にはパースエイダーが装備されていた。
開けた草原が広がる道をただひたすらに走り続け、国と国とを渡り続けるその旅人とすれ違うものもいなければ、姿を見るものもいなかった。
それでも、旅人はひたすらにモトラドのエンジンを動かし続け、次の国へと走っていた。
「キノ。この頃調子が悪いようだけど、休むんなら――」
見た目にはまったく調子が悪い事など分からなかったが、一心同体で走っているモトラドには旅人――キノの微妙な体調の変化が瞬時に分かったらしい。
先の言葉を予測したキノは、くすりと苦笑するとモトラドに向かって言った。
「さっさと休んだ方が良いよって?モトラドは運動だから、だろう?ボクは大丈夫。只、次の国に着いたときには医者に見てもらうことにするよ」
先にモトラドの言葉を取ってしまったキノはおどけた調子でそんなことを言った。
医者に身体を見せるといったのは、モトラドに安心させるためだったのか、それとも自身に何か思うところがあったからなのだろうか。
ともかくモトラドは安心したようにいつもの甲高い少年とも少女とも判別のつかない声で言った。
「医療が進んでいるといいんだけどね」
「それは、時の運さ」
ひたすら前だけを見続け呟いたキノは一体何を思っていたのだろうか。
それは旅の同行者であるモトラドでも分からなかった。
ぱちぱちぱちぱち。
火が枯れ木を燃やし続ける音ばかりが響く。
今日は国にたどり着く事が出来ずにキノは野宿を要されることになった。
旅をしている間というのはこのようなことが多々ある。寧ろ、3日間ルールを適用しているキノにとっては国に滞在している期間の方が短いのだけれど。
既に慣れてしまったそれに、キノは乾いた枯れ木を集め火を起こし、寝床を確保し食事をするために動物を狩ったり茸や食べられる草をかき集め、それらを煮て食べた。
「――くっ」
携帯食料なんかよりもはるかにおいしいはずのそれを食べながら不意に訪れた吐き気に負け、咄嗟にモトラドが見ていない草陰に隠れると食べたものを吐き出してしまっていた。
げえげえ、と胃酸が逆流し独特の味がキノの口の中に広がる。
それを不快に思いながら、吐き出せるものを全て吐き出すとふぅと一息入れて燃え盛る火のところに戻った。
「あーあ、もったいないねぇ。食べておける時には食べておかないと」
戻ったキノに、食事を必要としない(もちろん燃料は必要なのだけれど)モトラドは単調な声音で呟いた。
確かに食べられるうちに食べることは、旅人として当たり前だ。次の国ではちゃんとした食べ物にありつけるのかも分からないのだし、次の瞬間にはもしかしたら追いはぎに襲われているかもしれない。
だからこそ、キノはモトラドの言葉に反応することなくすぅーっと息を吐くと、荷物の中に残っている携帯食料を口の中に無理やり詰め込んだ。
その後、キノは腰につけていたパースエイダーを静かに丁寧にそれでいて手馴れた動作で、手入れをしていく。
細かく忙しなく動くキノの細い指はまるで人を殺したことなど無いような、小さな子供の指だった。
運転のミスにより壊されるのを危惧してか、モトラドは何度も休むようにとしつこく言い続けたのだがそれでもキノは休もうとはせずに、国にたどり着いた。
その国は別段特別条件があるわけでもなく、入国審査は難なく終わり直ぐに入国許可が下りた。
しかし、国に入る前にキノは入国管理局の人に一つ聞いた。
「ここで医者にかかる場合、なにか必要なものはありますか?」
「いえ。ただ、国民ではないので医療費が高くなりますが……旅人さん、何処か具合が悪いのですか?」
心配そうな顔つきで見ている入国管理員に、キノは表情を変える事も無く普通の声音で返答した。
「……いえ。ただ少し、気になることがありまして」
食物を戻している時点で充分具合は悪いのだろうが、普段はそれほども無いことを考慮してかキノは、そんな曖昧な風に答えた。
その言葉に納得したのか入国管理員はにこりと微笑んだ。
「そうですか。では、この大通りを進んでいって突き当たりを右に曲がった細い路地にある医院がいいと思いますよ。あそこは個人医院ではありますが、そこで見てくださっている先生――×××××先生は専門外でもそれなりに精通していますから、旅人さんのようにどのような病気にかかっているのか分からない方でも、適正な処置をしてくださると思います」
「そうですか。わざわざ有難う御座います」
親切に教えてくれた入国管理員に礼の言葉を言うと、キノはモトラドに跨りぶろろろん、と入国をした。
宿屋にチェックインを済ませ寝る場所を確保だけすると、キノはモトラドを走らせ入国管理員に教えてもらった個人医院に来た。
問診表に症状を記載し、口頭での受け答えを済ませ検査を受けると向かい合って座っている優しげな雰囲気をかもし出している女医は、少しばかり複雑そうな表情を見せながらもキノに向かってにこりと笑った。
「おめでとう御座います。貴方には今3ヶ月目の命が宿っています」
その言葉にキノは驚きもせずだからといって困惑したりもせずに、ただ無表情で女医を見ていた。
それがまた、女医には奇妙なものに見えた。
普通ならば嬉しそうな顔や、旅人という職業から察するに嫌そうな表情など何らかの反応を見せるものだ。――けれど、キノはただ何も感じていないような無表情だけだった。
まるで事前に予測し、それを既に受け入れていたような。
しかし女医はそれを目の前の患者に示すような事はせず、にこりと微笑み柔らかな雰囲気を作りながら話した。
「6ヶ月目になると安定期に入るので多少は運動しても大丈夫ですが、今は流産する恐れがあるので運動――モトラドに乗るなどは控えたほうがいいと思います。ただ、ここは産婦人科ではないのでキノさんが了承されるのなら、紹介状を書きますので専門病院で適正な処置を受けたほうがよろしいと思いますが」
そこでようやくキノが言葉を漏らした。
「まいったな、3日以内には出て行けないや」
こうなるのは、必然だったのか偶然だったのかキノにはまるで分からなかった。
しかし、堕ろそうという気だけは起きなかった。
だから、紹介された病院で診察を受けている間に長期滞在するのなら国に属した方が良いと言われ、言われるままに市役所で手続きを済ませると仕事をする事もままならないキノに国のほうから最低限の収入を約束された。つまり、そういう法律の国だったということだ。
病院と紹介された小さなアパートの行き来を繰り返すうちに3ヵ月は簡単に過ぎていき、母子ともに安定し始める6ヶ月目を過ぎると、キノはあまり動かなくても良いような仕事を手伝い始めた。
最低限暮らしていけることは決まっていても、やはり仕事もせずにお世話になるのはキノの性に合わなかったのだろう。動ける範囲内ではその範囲内での仕事をすべきだ。それは、旅人として自炊してきた結果でもあった。
モトラドは基本的にキノが運転できなかったので、彼が借りている小さなアパートの小屋の中にいた。自分が動けない生活に多少閉口しながらも、時折思い出したようにキノに引き摺られては町をゆっくりと動き、時には1人と1台ででどうでもいいことばかりを話した。
それは、昔森の中で師匠と暮らしていたかのような、そんな酷く穏やかな日々だった。――つまり、モトラドはそれはそれでこれはこれだと割り切っていたのだった。
また何時ものようにモトラドとキノは二人でどうでもいいことばかりを喋っていた。
そんな折、モトラドは酷く言い辛そうにキノに聞いた。
「ねぇ、キノ。無粋なことを聞くけどさ、相手って――」
その言葉に、キノは静かに大きく張り出している自らのお腹をすっと一撫でした。
それはとても慈しみをこめて。
「会ったら、すごく驚くだろうね」
呟くとキノはくすくすと楽しげに笑った。
ただ、笑いたい気分だった。
良いとも悪いとも思わなかったのだ。
彼は自分の定住地を、心休まる場所を探しているだけで。
キノはただ、旅人だった。
様々な人と関わり喋り、時にはその人の人生すらも決めながら旅をしてきた。その中で、キノは彼の何に心惹かれたのか。
もしかしたら、まるっきり違う目的のはずなのに似たような本質を持っていた所為かもしれない。けれど、旅人という冷酷にならねば生きていけぬものになりながらも、非情になれないお人好しさとか甘すぎる優しさとか、本来生粋の旅人で無いからこそ持っていた彼の自分とは異なる部分に惹かれたのかもしれない。
だから、アイとか恋とか言わぬままに身を重ねて。
このことを知らなければいい、とキノは漠然と思った。
探して子を孕んだ責任を取らせるつもりなど毛頭も無かったし、彼の探す定住地を探すつもりも無かった。
ただ、ほんの少しだけ交じり合ったその結果が自身の中にあれば良いと思った。
彼が何を思っていようとも子を望もうとも望まなくとも、キノに与える影響力などそれほどない。
だからこそ彼の存在が必ずとも必要だったわけでもないし、子の存在が彼と自身の関係性になんら影響を与えるとも思わなかった。――寧ろ、影響を与えて欲しくなかったからこそ彼を探したくなかったのかもしれない。
だからこそ、キノは卑怯にも何も教えるつもりなど無かった。
出産は何の問題もおこなわれ、子が誕生した。
男の子だった。
キノは住民票を抜き、国籍を抹消すると小さなアパートに溜まった少しばかりの荷物を処分したり時には荷物の中に入れたりし、全ての痕跡を消した。
そんな行動に驚いたのは周りの人々だった。
まさか、新生児を抱いて旅人に戻るとはこれっぽっちも思わなかったのだ。
それだけ旅というものは危険であったし、そんな危険なものに子供を連れて行くなんて、と周りの人々は懇願したり非難したりした。
「キノさん!この国で暮らせばいいのに――せめて、子供が大きくなるまで」
そんな声に、キノは表情を何一つ変える事なく首を振った。
変える意思など何処にも無いと言いたげに。
「いいえ。元々は3日間だけの滞在を延ばしに延ばしてしまいましたから。それに、旅はとても危険ですがボクは――」
言葉を区切ったキノは、なにか思案するように口を動かす。
だがしかし、間の言葉は途切れたまま。
「――ともかく。今まで親切にしてくださって、有難う御座いました。では」
キノはそのまま、何の未練もなく国を出た。
モトラドと、新たに旅の仲間として迎え入れた1人の男の子を胸に抱いて。
それから一ヶ月が過ぎたぐらいだっただろうか。
一台のバギーが国に訪れた。
運転席に乗っていたのは緑色のセーターを着た青年だった。面長な顔に柔らかな雰囲気をかもし出している。腰には刀をぶら下げていた。助手席には笑っているような表情をした一匹の犬がいる。そして後部座席には真っ白な髪をした十代に至ったか至らぬかぐらいの少女が。
入国管理局でおこなわれる審査にはすんなり通り、旅人である彼らと話していた入国管理員はにこにこと喋っていた。
「いやぁ、旅人さんが来るのは久しぶりですね。あ、でも彼女も旅人に戻っていたのだから、そうとも言えないな」
独り言のように呟いた入国管理員に緑色のセーターを着た青年は興味深げに先を促した。
「いやね、その旅人さんはこの国に着くなり子供を宿していることが分かってね。さすがに旅を続けることは困難だと考えて――ああ、でも堕すような事はしなかったなぁ――ともかく、出産するまでこの国に滞在したんだよ。一時は住人になってね。もちろん国の誰も彼もが旅人さんをこの国の住人だと認識していたんだけれど、出産してしまって直ぐ旅に行ってしまったんだよ。私たちは子供がしかるべき――せめて、パースエイダーを操れるような年齢になるまでこの国にいるといいと言ったんだけれども、旅人さんは聞く耳を持たずにそのまま行ってしまったよ」
残念そうに話す入国管理員に対し、へぇと緑色のセーターを着た青年は感歎したように呟いた。
それは子供というハンデを持ちながらも、子供を堕すこともせずにだからといって里親に出すこともせずに旅に同行させた母親に対するものだった。
「それはすごいですね。けど、独りだったんですか?」
「ええ。父親のことは一切話そうとしなかったね。きっと、彼女が乗っていたモトラドなら全てを知っていたんだろうけれど、旅のことは面白おかしく喋るのに子供の父親のことは一切言おうとはしなかったね。――よっぽど酷い男だったに違いないよ」
ふと緑色のセーターを着た青年が白い犬のほうに視線をやると、いつもの通り笑っているように見えるのに、緑色のセーターを着た青年にはモトラドという単語に反応したようにぴくんと耳を動かし、この当てもない旅を始めるきっかけになった故郷と呼ぶべき場所で出会ったモトラドを思い出したのか少しだけ苦い表情を浮かべたように、見えた。
その白い犬の反応に、少しだけ緑色のセーターを着た青年は微笑みを漏らし、入国管理員を見た。
「もしかしたら、旅人さんも何かの縁で彼女に会うかもしれませんね」
その言葉は緑色のセーターを着た青年には、どこか滑稽な響きのものに聞こえた。
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