魂喰い
ゼルガディスが目を開けると、コスモスの花の中に居た燐音の表情は悲しげに歪んだ。
風に吹かれ揺れるコスモスは彼女が喰らった血の色などではなく、例えば彼女自身のどこかに向かった愛情にも似たものに見えた。
目覚めたゼルガディスの瞳を見て、燐音はぽつりと呟いた。
「人は全て食ろうてしまおうと思っていたのに」
薄く笑って見せる燐音に、立ち上がったゼルガディスは静かに彼女を見た。
「アンタは、何を望んでいるんだ?」
その言葉は燐音の予想していなかったもののようで、一瞬目を見開いてしかし直ぐに目を伏せた。
まるで、先ほどまでの表情の変化を否定するように。
「……何も望んでなどいない。ただ人を喰らいたいだけだわ」
ゼルガディスは、その言葉を否定するように首を軽く横に振った。
その仕草に燐音は不思議そうにゼルガディスを見ていた。
自分の予想していた行動を裏切っていくゼルガディスを。
「アンタは人を食らうようなものには見えん。俺は何の因果か魔族と行動を共にしたことがあったが、アンタはその魔族のように人を陥れる事に関して楽しんでいるようにはこれっぽっちも見えんからな」
その言葉に、燐音は否定するようにゆるゆると首を横に振った。
そうしてゼルガディスを見た表情は、何かに縋りたいと泣き叫ぶようにへにゃりと歪んだものだった。燐音にとってはそれが全てだと言いたいような。
それでも発した声に感情をあらわすような変化はなく。
「全て滅んでしまえばいいと思ったのよ。それが唯一の願いだったわ」
言葉を聞いたゼルガディスは真っ直ぐに燐音を見た。
「嘘だな」
「何故?」
「それだけを望んでいるのなら、そんなに悲しそうな表情などする必要がない。それにアメリアの精神を食らおうとするのではなく、肉体を食ってしまえばよかっただろう?」
そちらのほうが時間がかからないし、多くの人を食べる事が出来る。
なのにその手段をとらなかったのは、遊んでいる訳でも状況を楽しんでいる訳でもなく――ただ、先延ばしにしたいと迷う心があったからに他ならないのではないか。
ゼルガディスは燐音の言動を見ていてそんな風に思った。
彼女には笑いながら首をかきむしるような残酷さは見えなかったから。
「アンタが望んでいる事はなんなんだ?」
「わ、たしは――」
再度、ゼルガディスが問うと酷く怯えたような表情を見せて、初めて声音を変化させた。
まるで、何かに怯える少女のように。
「燐音さん!」
そんな時声が聞こえて、すとんとゼルガディスの隣にアメリアが降り立った。
無事にゼルガディスが戻ってこれたのだから、アメリアだってその魂を肉体に戻す事が出来たのだろう。
初めて元気な姿を見たゼルガディスは、心の奥でそっとほっとしていた。
燐音を真っ直ぐに見たアメリアは、ふわりと安心させるかのように微笑んだ。
「悲しかったんですね」
放たれた言葉に、燐音は驚いたように目を見開いた。
アメリアはそんな表情の変化を気にすることのないように、微笑んでいる。
「貴方の夢を見ていました。貴方が鬼だからって貴方の大切な人が殺されてしまったのなら、悲しむのは当たり前だと思います。もし、わたしもわたしの大好きな人が殺されてしまったのならきっと殺した人を憎むと思います。貴方は、鬼だからという偏見から大好きな人を殺されてしまったから人間を憎むしかなかった」
燐音は下唇を噛みしめてた。
その行為はアメリアの言葉を肯定するもので。
憎む対象が人間全てなのだとしたらそれは、どれだけ長い戦いなのだろうか。たった一人に復讐するだけでもかなりの時間がかかるし、なによりも精神を疲弊させるというのに。
だから、燐音は人を食らっていたのだろうか。
「でも!紫遠さんはそんなこと望んでいないと思います!ただ、ただ貴方が幸せであったのなら良かったのだと思います。貴方が憎しみに身を焦がし、人を食らったとき――貴方の中の紫遠さんは微笑んでくれましたか?」
「紫遠……だと?」
出てきた人物は確かにゼルガディスの知っている人だった。
いや――今も、後に静かに佇んでいる。
「ゼルガディスさん?」
「紫遠なら其処にいるじゃないか」
ゼルガディスは後を振り向いて、その人物が存在することを述べた。
しかし、再度燐音の顔を見ても嬉しく微笑んでいる訳でもなく、ただ悲しげに力ない笑みを浮かべるだけだった。
「私は、身を落としました。憎み人を食らうことで神族であった鬼の身を不浄のものへと落としたのです。……だから、心優しい彼が私を迎えに来てくれたとしても、私は彼を見ることは出来ません。同じ世界に行くことが出来ないのです」
「そんなことはない!」
放った言葉を否定するように、強く叫んだ紫遠は赤いコスモスを踏み潰して燐音の前に立った。
しかし、燐音の視線が紫遠の姿を捉えようと焦点が結ばれる事もなく、ただゼルガディスとアメリアのほうを見ているだけだった。
それでも、紫遠は叫んだ。
「燐音は私を見ることを怖がっている!怖がっているから、私を見ることは出来ないんだ!もう、私と君は同じ世界にいるというのに……私はいつまでも君に触れることが出来ない」
悲しげに……消えうるような声で最後に呟いた言葉は、人を喰らった燐音でも確かに愛を感じているような声音で。
「燐音さん」
アメリアは呼ぶようにポツリと呟いた。
それは、酷く真っ直ぐで光を導くような強い視線でただ緩やかに微笑んだ。
「わたしは誰にだって平等に幸せになる権利があると思います。燐音さんはもうこの世での幸せをその身で獲得する事は出来ませんが、だからって死した後に貴方を縛るものなど何一つないでしょう?あなたが望むとおりにすればいいじゃないですか。正義はそう望んでいるはずですっ!」
びしっと人差し指を突き立てるのはまさにいつものアメリアそのもので。
燐音はどこか泣きたいような、それでもその言葉を信じきれないようにきゅうっと眉を寄せて、それでも声音は冷静を装ったまま言う。
「私はあなた方人間とは違うんですよ?」
「そんなの関係ありません!だって、燐音さんはあんなに幸せそうに微笑んでいたじゃないですか。……それが本当の望みなんですよね?」
アメリアはにこりと笑った。
「私は――」
何かに耐えるように視線を落とし拳を握り締めた燐音はほんの、微かに聞こえるか聞こえないかぐらいの声で、
「紫遠にあいたい」
呟いた。
「燐音」
悲しげに呟いた紫遠の言葉にはっと顔を上げた燐音は、確かに焦点を紫遠に合わせていて。
涙を堪えるように笑ったその表情は、人を食べていた時よりも遥かに緩やかで華やかなものだった。
「紫遠……?ああ、ようやく、ようやく会えたのね?」
「燐音!」
その感触を確かめるように抱き寄せた。
それは、柔らかくそれでいて隙間を埋めるようにきつくきつく。
ただただお互いの体温を確かめるためだけに抱き締めているようだった。
「君が食らう書に一縷の思いを乗せてくれたから私は此処にいることが出来たんだよ、燐音」
「本当?」
柔らかく微笑む紫遠に、ぽろりと一粒の涙が零れ落ちると燐音はぽろぽろと涙をこぼしていた。
涙を流しても燐音は全く悲しげではなくただ、幸せそうだった。人を喰らっていたときとは比べ物にならないくらいに。
「ああ、ずっと一緒にいよう。絶対に離さないから」
「でも、私……」
戸惑うように視線を這わせる燐音の心の中にあったのは、自らの犯した罪だったのかそれとも悲劇の元凶となった自分への恨みだったのか。
それでも紫遠は安心させるようにただ微笑んでいた。
「私はもう殺されたことなんて恨んでいないし、君が気にする必要などどこにもないんだよ」
「いいの?」
それは復讐を続けなくて良いのかという意味なのか、燐音はただ戸惑うように聞いた。
紫遠は安心させるように燐音の角の生えた頭を柔らかく撫でると、ただ優しげに微笑んでいた。全てを無くし全てを恨んだ……恨まなくてはならなかった燐音へ。
「ああ、本当は誰よりも人間が好きだった君にそんなことをして苦しんで欲しくなんかないんだ」
「紫遠、有難う」
安心したように微笑んだ燐音の表情は、今までの物の中で一番華やかで幸せそうで。
本当に望んでいたのがそれなのだと直ぐにわかるものだった。
ただお互いを抱き締める姿は緩やかに透明になっていって、それは全ての未練を……喰らう書に望んだものが果たされたことを示していた。
そうして、二人はゼルガディスとアメリアを見た。
全てを導いた二人を。
「有難う。私のしたことは許されない事だけれど」
「……そうだな。でも幸せになる権利は誰にでも存在するさ。罪は償えばいい。俺も、そうしている」
悲しげに微笑んだ燐音にゼルガディスは肯定の言葉を返した。
そして、彼女と己に励ましの言葉を。
燐音は柔らかく微笑むと、強く真っ直ぐな光を点した瞳で二人を見た。それは、人を喰らっているときとはまるで違うものだった。
「――いつ輪廻の輪に入れるかは分かりませんが、それでも私は諦めずに償っていこうと思います」
「私はそれを支えていくよ。ずっと混沌の奥底で」
ぎゅうっと燐音を抱き締める紫遠の腕の強さに、燐音は微笑んだ。
辛いはずの旅路へ行くのに、とても幸せそうに。
「応援しています!正義は二人が幸せになることを望んでいるのですからっ!」
ぐっと親指を突きたてたアメリアに、二人はただ微笑んだ。
そうして、透明になって遂には輪郭さえもなくなって二人は消えた。
コスモスの中に舞い落ちた真っ白な魔道書の中には光り輝く漆黒の文字で、まるで詩のような一文が記載されていた。
『食らうものは償う。食らうものはただ静かに全ての罪が流れるときを願って、愛した人の元で二人で償い続ける。遠くない未来まで』
>>20060524
あー、直せている感じがしないんですけど。
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